栗野駅からまち歩き

かつては肥薩線と山野線の分岐駅として栄えた栗野の町。近年の区画整理によって鉄道の町の様相は薄らいだが、駅周辺には栗野城こと松尾城を中心として城下町としての趣きを伝えてくれる史跡が点在している。また、現在の町名が湧水町ということもあり、湧水も駅近くで確認できる。鉄道・城下町・湧水をキーワードに栗野の町を歩いてみよう。

① 栗野駅

明治36(1903)年に鹿児島駅から隣の吉松駅まで延伸されることによって開業した。その際にはまだ鹿児島線と呼ばれていた。明治42(1909)年に人吉と吉松間が開業することによって旧鹿児島本線が誕生し、東京または青森まで鉄道でつながった。ちなみに山野線は大正10(1921)年に山野駅まで「山野軽便鉄道」として開業したのが始まりで、最終的に水俣駅まで開通したのは昭和12(1937)年のことである。駅のホーム下には隣接地の丸池湧水からの用水路があり、明治期の煉瓦暗渠が現役として活躍している。

② 丸池

2-神道湧水の起源は栗野岳とされ、毎秒3.5トンとされる水がこんこんと湧きあがる。池を覗いてみると湧き上がる場所は、周辺と色が異なり美しさが際立っている。現地はもちろん、この湧水を汲むことができるので、夏は涼を感じさせてくれる場所として人気である。展望スペースや水神碑もあり、用水路沿いを散策することもできる。

③諏訪神社

御祭神は建御名方命や事代主神などで、創建年代は不明。長い階段を上った高い台に社殿はある。境内には、島津義久が菱刈氏を攻める際に祀ったという稲荷大明神がある。また、社殿の横にある宇気母知神は、松尾城の火除けのためにつくった溜池にあったものという。

④ 徳元寺跡

松尾城の西麓に位置していた。福城山と号し、本尊は如意輪観音であった。栗野院の在地領主だった酒井伊豆守が応永13(1406)年に建立した際には崇寿寺と言っていた。文禄4(1595)年に島津義弘によって徳元寺と名前が改められた。義弘の14歳で亡くなった久四郎の菩提寺でもあり、現在も墓は残る。朝鮮出兵の際に、島津義弘は蓮の種を持ち帰って来たが、それはこの寺の池に植えられ徳元蓮と呼ばれたという。

⑤ 松尾城(栗野城)跡

標高が一番高い場所で253メートルある。鎌倉初期にこの地域の郡司をしていた御家人の守網によって築城されたという。その後戦国期には北原氏が、この城に入るが、永禄5(1562)年に島津貴久が、この地を直轄するようになり、比志島氏や川上氏が地頭として入った。後に島津義弘が飯野城から移り、朝鮮の役にはこの城から出陣している。本丸からは栗野岳はもちろん、栗野の町並みも美しく望むことができる。また、川内川が城の外掘りの役割をしていることも理解できる。

⑥ 勝栗神社

古くは正若宮八幡社と呼ばれ、現在の鹿児島神宮の四至の別宮のひとつとされた。栗野院の総鎮守として繁栄し、栗野城に入り様々な城主から信仰されてきた。島津義弘が文禄元(1592)年に朝鮮に出陣する際には当社に参拝し歌を残している。その和歌の一部から明治3(1870)年に勝栗との社名になった。江戸時代には別当寺としての梅中寺もあった。

 

 

 

 

 

 

東川隆太郎 プロフィール

【職歴・略歴】

東川隆太郎NPO法人まちづくり地域フォーラム・かごしま探検の会代表理事。「まち歩き」を活動の中心に据え、地域資源の情報発信や、県内及び九州各地での観光ボランティアガイドの育成・研修、まちづくりコーディネートなどに従事する、自他ともに認めるまち歩きのプロ。
主なテーマは、地域再発見やツーリズム、さらに商店街やムラの活性化など。講演活動、大学の非常勤講師などを通しての持論展開のほか、新たな地域資源の価値づけとして「世間遺産」を提唱するなど、地域の魅力を観光・教育・まちづくりに展開させる活動に従事している。1972年鹿児島市生まれ。鹿児島大学理学部地学科卒。

2017-12-01

カテゴリ:いっぺこっぺさるこうかごしま

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