大崎町の中心部をあるく

大崎町は、志布志湾に面しており約100平方キロメートルの面積を有する町である。海岸線は約7キロ、海岸線から内陸部には南北約18キロあり、昭和30年に大崎町と野方村が合併して現在に至る。今回は、その町の中心地をのんびり歩きます。

① 大崎城跡

現在の町役場の一部や大崎小学校などが中世の山城だった。学校や道路の建設によって様相は様変わりしたが、学校のグランドや役場の背後にある丘などが当時を偲ばせてくれる。天正5(1577)年に比志島美濃守が初代地頭として、この地に城を構えた。その後、江戸時代に入ると大崎郷は島津氏の直轄地となり迫水久光が地頭として入った。その頃には城というよりは地頭仮屋としての機能があり、大崎小学校の校舎のあるあたりに建物があった。

② 三文字

現在の大崎町の中心市街地は、三文字周辺であり商業施設や飲食店などが立ち並んでいる。ただ、この付近は明治の後半までは牟田地帯で店舗などが並ぶ環境になかった。それが一変したのは、宮路善五郎氏の開拓によるものである。明治36年に大崎と百引や牛根に向かう県道が開通した際に、宮路氏は牟田を埋め立ててそば屋を開業した。そば屋は荷馬車などが集まる場所として繁盛し、明治40年に郵便局がそば屋前に移転すると店舗の開業が連続するようになり、さらに昭和10年に鉄道が開通すると三文字はさらに賑わうようになった。

③ 都萬神社

御祭神はコノハナサクヤヒメなどで、天文9(1540)年12月3日に、志布志の原田という場所からこの地に移転された。それ以前の創建とされ、かつては日向国の総廟五社大明神妻宮と呼ばれていた。妻は御祭神がニニギノミコトの妻であることに由来する。江戸時代には藩主の武運長久や地域の安全を祈願するために9月の大祭では流鏑馬の奉納もあったという。また、国指定重要文化財にもなる菊と二羽の雀が描かれた銅鏡が当社所有となっている。

④ 上町

江戸時代には心慶寺や月笑寺の門前町、さらに都萬神社への参詣者が憩う場所としてにぎわう商業地であった。また藩から許可を得て商売のできる野町でもあり、定期市もあった。市の立つ日は、2月7日・7月7日・12月17日・12月27日と決まっていたようである。明治後半から大正期に三文字に商業地が移っていくまでは、飴屋や旅館、下駄屋に魚屋などがひしめく通りでもあった。

⑤ 西南戦争の激戦地

上町からの通りは、串良や上永吉、横瀬などからの街道が交差する場所でもあり防衛上も重要であった。そのため明治10(1877)年の西南戦争の際には、志布志方面に進軍しようとする官軍と、通りをどうにか死守しようとする大崎郷の西郷軍側が激しい戦闘を繰り広げることになった。特に戦争が激しかったのは7月1日のことで、住民らは神領にある「デガドンの山」という場所に避難したという。ここでの戦闘は、意外と西郷軍側が有利に進めて11日には官軍は柏原方面に退却することになった。

⑥ 補陀山月笑寺跡

開基や由緒などの記録があまり残っていないが、大崎郷の菩提寺であった心慶寺の末寺であり隠居寺ではあったようである。明治2(1869)年の廃仏毀釈によって建物などはなく、境内にあった仏像や墓などがわずかに残る。また寺院のあった精霊迎えの地蔵尊は残されている。現在でも七夕の日には地蔵尊に参拝する習慣は続けられている。

 

 

 

 

 

 

東川隆太郎 プロフィール

【職歴・略歴】

東川隆太郎NPO法人まちづくり地域フォーラム・かごしま探検の会代表理事。「まち歩き」を活動の中心に据え、地域資源の情報発信や、県内及び九州各地での観光ボランティアガイドの育成・研修、まちづくりコーディネートなどに従事する、自他ともに認めるまち歩きのプロ。
主なテーマは、地域再発見やツーリズム、さらに商店街やムラの活性化など。講演活動、大学の非常勤講師などを通しての持論展開のほか、新たな地域資源の価値づけとして「世間遺産」を提唱するなど、地域の魅力を観光・教育・まちづくりに展開させる活動に従事している。1972年鹿児島市生まれ。鹿児島大学理学部地学科卒。

2018-03-30

カテゴリ:いっぺこっぺさるこうかごしま

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